建国記念の日は、明治に入り、初代天皇である神武天皇が即位された日を「紀元節」という祝日に定めたことに由来します。戦後、「紀元節」の祝日は廃止されましたが、昭和42年から「建国記念の日」として復活しました。
神武天皇の即位は、日本書紀の「辛酉の年(紀元前660年)の春正月一日(新暦の2月11日),天皇は橿原(かしはら)の宮で即位された」という記述に基づいています。
神武天皇は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫で、争いのないゆたかな国を築くために、宮崎の高千穂から国の中心がある東へと向かいました。道中、豪族との争いや、相次ぐ兄弟達の不幸等、想像を絶する困難に遭いながらも国内を平定し、ついに畝傍山(うねびやま)の東南にある橿原宮(かしはらのみや)で初代天皇として即位したのです。
神武天皇が橿原神宮で発布された「建国の詔(みことのり)」には、日本をどういう国にすべきか、建国の理念が述べられています。日本書紀の現代語訳を見てみましょう。
「私が東征に発って6年となる。大いなる天(あま)つ神のご威光により賊は討伐された。辺境の土地はまだ鎮静せず、賊の残党はまだ手強(てごわ)いが、国の中心のこの地にはもはや騒乱はない。ここに都を広く開き、壮大なる宮殿を造営しよう。しかるに今は世の初めにあたり、人々の心は素朴である。巣に住み、穴に住み、旧来の風習を変えていない。
そもそも聖人が制(のり)を立てれば、その道理は必ず時勢に適(かな)うものである。そこで、万が一にも民に利のあることならば、聖人の為すことに何ら妨げはない。山林を切り開いて皇居を造営し、つつしんで皇位について人々を安んじ治めねばならぬ。上は天つ神が国をお授けになった御徳(おんとく)におこたえし、下は皇孫の正しきを養う御心を広めよう。しかる後に、六合(りくごう―天地四方)を一つとして都を開き、八紘(はっこう―八つの方向の隅、天下すべて)を合わせて一つの家とすること、それははなはだ良いことではないか。
眺めるに畝傍山(うねびやま)の東南の橿原(かしはら)の地は、国の奥、安住の地であろう。ここを都と定めよう」注1
建国の詔の原文の中に、私たち現代人が学ぶべき大切な言葉があります。「おおみたから」と「八紘一宇(はっこういちう)」です。
建国の詔にある「つつしんで皇位について人々を安んじ治めねばならぬ」という箇所ですが、「人々」を指す漢字は「元元」と書かれています。平安時代に書かれた日本書紀の解説書に、これを「おおみたから」と読むと注釈されており、日本書紀に出てくる「人民」「衆庶」「百姓」「民萌」「民」はすべて「おおみたから」と読むとされているそうです。注2
「おおみたから」とは、大御宝を意味し、いにしえより天皇が国民を宝のように大切にされていたことが伺えます。
また、建国の詔にある「八紘を合わせて一つの家とする」という記述ですが、神武天皇は、日本を建国するにあたり、国民が一つの家族のように平和で安心して暮らせる国にするという大きな理想を掲げていたことがわかります。
太平洋戦争で日本陸軍が「八紘一宇」を日本のスローガンとして使用したため、第2次世界大戦後に「八紘一宇」という言葉は軍国主義を連想させるとして使用が禁止されましたが、本来は、日本の建国に際し、人々が平和で安心して家族のように暮らせる理想の国造りを意味する言葉だったのです。
日本には三千年近い皇室中心の歴史があり、国家・国民が一体となって調和、団結し、国の繁栄に努力してきました。この調和の精神こそが日本精神であり、この調和の精神が世界平和実現の重要な鍵となっていくのではないでしょうか。