経済成長と復興を遂げた日本。世界有数の技術大国となり、暮らしは豊かになった。けれども、「日本人としての精神」は果たして保たれてきただろうか? いま私たちが立っているこの社会は、本当に私たち自身の価値観によって築かれてきたものなのか? その問いを、いま改めて見つめ直すときに来ている。
戦後、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に置かれた。これは単なる軍事占領ではない。徹底した制度改変と文化の再設計だった。
教育制度は根本から改められた。修身や教育勅語は廃止され、神話教育は禁じられた。家庭や学校で「親を敬う」「祖先を尊ぶ」「国を思う」といった価値観を教えることは、軍国主義に通じるものとして排除された。
これは、「日本人が日本人として生きるための精神的土台」を、根本から崩すことだった。
憲法改正、報道の統制、宗教と政治の分離──。これらは一見して民主化の名のもとに進められた。しかし、その深層には「日本らしさを消し去る」という明確な意図があったと言わざるを得ない。
この価値観の大転換を下支えしたのが、「戦前=侵略」「戦後=平和・正義」という単純な構図である。こうした善悪の二項対立が教育現場を覆った。
結果、日本の歴史は「過ちと反省の連続」として語られ、日本文化は「抑圧的」「非科学的」と切り捨てられた。戦前の日本を肯定的に語ることは、右傾化や復古主義とみなされ、タブー視されるようになった。
特に、天皇や家族制度、伝統的な宗教観といったものは、「危険思想」として扱われ、公の場で語ることすら困難になった。
こうして日本人は、自らの歴史や精神を語る言葉を失っていった。これは、単なる知識の欠如ではない。価値観を継承するための「場」と「言葉」を奪われたことによって、自分たちが何者であるかを理解し、誇りを持つ機会を失っていったのだ。
例えば、終戦記念日が近づいても、それを「ただの敗戦の日」としてしか受け取れない若者がいる。祝日である建国記念の日に「何を祝っているのか分からない」という声があがる。
これは偶然ではない。精神的基盤が抜き取られた80年の結果なのである。
西洋的な個人主義、人権主義、合理主義。それらが一概に悪いというわけではない。しかし、それらを「日本的なるもの」と対立的に位置づけ、日本文化を劣ったものと断定する姿勢は、日本人に深い劣等感と混乱を植えつけた。
家族とのつながりよりも個人の自由が優先され、祖先の物語は「非科学的」として排除された。神話や伝承、そして天皇の存在すら、歴史の中に「封じ込めるべきもの」とされてきた。
これが、私たちが直面している「精神の空白」の出発点である。
では、その空白の中で、私たちは何を失い、何を保ってきたのか。そこに「復元の鍵」は存在するのか。
次回は、現代社会における「日本人らしさの残像」と、「精神の回復」の兆しを探る。